自衛隊はポンコツなのか?

自衛隊は武装組織であり、憲法上はともかく、事実上の軍隊である。そんな組織がポンコツである訳がないし、あってはならない。

しかし、日航123便墜落事故の対応に関してはポンコツと言わざるをえない。

自衛隊の役割のひとつは災害対応がある。自衛隊は、自然災害や緊急事態に迅速に対応し、救助・救援活動を行い、人命救助や物資の提供を担当する。

1985年8月12日月曜日にお盆休みに入ったいた人も多かったと思うが、空自峯岡山分屯基地(千葉県、通称「峯岡山レーダーサイト」)では同日も、もちろん任務中で18時28分頃に「エマージェンシー、スコーク77(セブンセブン)!」を確認している。

また、百里基地でも当時は2機のF4ファントムが24時間年中無休でスクランブル待機中であった。スクランブル待機は常時4機の戦闘機とその要員が待機しており、このうち2機は5分待機(発進命令から5分以内で離陸できる態勢)である。5分待機のパイロットは飛行装具を全て装着した状態でスタンバイしている。18時28分にすぐに発令していれば日航123便を必ず追尾できていたし、機体の損傷状況を機長に伝えられたはずだ。(個人的には自衛隊のパイロットは状況を伝えていたと思っている)

公式には墜落後の19時01分に2機のF4ファントムが百里基地を発進している。

一般的に、自衛隊は日本の領空に侵入する不明の航空機に対して、スクランブル発進を行うことがあるが、民間機に対してスクランブル発進を行うことは、通常は行われません。前例が無い訳ではありません。よど号ハイジャックの時は6機の自衛隊機が追尾している。

自衛隊の行動は日本の法律に則り、政府の指示に従います。文民統制(シビリアン・コントロール)であり、自衛隊の最高指揮監督権は、行政府の長である首相にある。ところが当時の首相であった中曽根氏は後の回顧録で日航123便墜落事故に関して「防衛庁と米軍の間でやりとりがあったのではないか」と、他人事のような記述をしている。これは極めて問題だ。また、中曽根氏は当日、軽井沢の別荘から帰京のため旧国鉄(民営化は87年4月)の特急列車の車中であり、回想録(『中曽根康弘が語る』2012年、新潮社)の中では、「車内で報告を得た」と書いている。タカ派と言われた中曽根氏がなぜか、スクランブルの発令をしていない。(公式にはそのようなことになっている)

F4ファントムは19時21分頃、F-4戦闘機2機も墜落現場の火災を発見し、位置を横田TACAN方位300度・距離32マイル (51 km) と通報したとされている。

それに先駆け米軍のC-130輸送機が19時15分頃、横田TACAN方位305度・距離34マイル (55 km) を航空自衛隊中央救難調整所に通報とされている。

いずれも通報の場所は方角と距離は墜落現場に近い、埼玉県秩父市(旧大滝村)山間部である。墜落現場は容易に特定できたのだ。

なぜ、御座山の情報に引きづられ、墜落現場の特定に12時間以上かかったのか?そんなにポンコツなのか?

当時、救援に向かった横田基地の空軍中尉C130輸送機パイロットのアントヌッチ氏の10年後の証言によると、「横田管制が123便に横田基地への着陸を許可するのを聞いた。」「撤退命令が出ていなければ、東京近郊の山中に墜落した日航 123 便事故の 2 時間後に、米海兵隊は生存者を救出できただろう。」「降下部隊が降りようとしたが、救助要請が出ずに引き返し、上長の大佐から『ご苦労だった。今回のことについてマスコミには一切他言無用』との命令を受けた。」とある。

墜落後初めてのヘリコプターからの降下したのは長野県警機動隊で翌日の午前8時30分。そして10時50分頃に、上野村消防団の団員が生存者を発見。いずれも自衛隊ではない。

自衛隊がポンコツとは到底思えない。軍隊は上官の命令は絶対だ。そして守秘義務も一般の公務員より厳格であろうことは容易に想像する。

どうしても隠したい巨大な闇を感じざるをえない。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA